八百万の神とは一体
僕の中では出会い=エンカウントと表記させてもらっているのですが、日本人にも馴染み深い、こと神社に関しては素直に出会いと言わせていただきました。
神社に初めて参拝したのがいつのことだったか覚えている人は少ないかと思います。
僕も覚えていません。小さい頃、親に連れられて初詣に行った人もいれば、神社が居住区内に建っていて身近だった人もいるかもしれません。遊び場だった、とか。
一般的には初詣でしょうか。除夜の鐘の音色を聴きつつ、神社に赴き、日付が変わってお参りをし新年への願いを込める……というのがよく聞く流れです。
しかし、それは一般的であっても必ずしも正しいとは言えません。
なぜなら初詣にしか神社に足を運ばない人が多い現代で、百余年ほど前に生きていた人たちにとっては少々意味合いが異なってくるのです。
例えば……お伊勢参りと聞くと誰しもが聞いたことのある三重県の伊勢神宮が思い浮かぶのではないでしょうか。まさしく伊勢神宮に参ることを指すのですが、このお伊勢参り、実はただの神社参拝ではありません。
祭神は言わずもがな「天照大神」。
日本の総氏神として祀られてるとても有名な神様です。女神として描写されることが多く、人々を照らす太陽を体現する神様です。
伊勢神宮には外宮と内宮がありますが、ここでまず「延喜式神名帳」について触れておきたいと思います。延喜式神名帳というのは西暦927年にまとめられた神社一覧のようなものです。
ここにまとめられているものをおおよそ摂社といい、伊勢神宮の摂社は40ちょっとあるんです。
そう、伊勢神宮と一口に言っても関係する神社が周辺に散らばっていて「神宮125社」という言葉もあってこの話を知ったときは伊勢神宮の風格や背景に驚かされました。
とは言っても、伊勢神宮といえば内宮外宮ですよね。摂社末社などは細かいので、現地に行ったときにでも訪ねてみる? くらいの考えで問題ないのではないでしょうか。神社って突き詰めると答えが見つからないほど難しく奥深いんです。
僕は縁結びや金運アップの御利益があるとかで、ふらっと神社を巡っていたらその魅力にとりつかれた口です。だから深く考えないで単純に名前が気に入った神社や、祭神の熱い想いに共鳴してしまったとか、気構えることなく鳥居をくぐってみてはいかがでしょうか?
すみません、話が少々逸れました。
そんな神々しく、広範囲に由緒ある伊勢神宮だからこそお伊勢参りの価値は非常に高いものだったのでしょう。
一生に一度はお伊勢参りをするというくらい、昔の人にとっては重要なイベントの一つで九州や東北からも訪ねてきたそうです。
余談ですが(何度も申し訳ない)東北地方の宮城県石巻は金華山。ここは島全体が霊場となっており、金華山黄金山神社に3年参ると一生お金に困らないなんて言い伝えもあります。
一生に一度。神社。この2つのキーワードはまさに神妙です。
金華山黄金山神社へは陸路と海路を使って向かえるわけですが、伊勢に参るのをはじめた頃の時代にエンジンはありません。
歩きです。
東京(江戸)からだと往復2週間以上をかけはるばる三重県(当時はまだ県ではないですが)までやってきて参拝する。
1週間2週間かけても、辿り着きたい理由がある。
伊勢神宮に赴き、拝礼し柏手を打つことに理由が必要か? 飢餓を脱すため、縁談がうまく進むように、背中を押して欲しい……祈る内容は個人個人によって違います。
試験に合格しますように。
と、頭を下げたとしても祈った人たち全員が同じ試験を受けているわけではありません。各々の望みを叶えるべく神頼みをしています。
そもそも神様に頼みごとばかりしていていいのかと疑問が生じてくるわけですけれど、そもそも神様はそんな小さな存在ではありません。
人間一人の話を聞くのなんて容易いだろうし、願いも聞くくらい余裕でやってのけてしまうでしょう。
なんせ、天照大神だけにとどまらず日本には八百万の神様がいるのですから。
自分の願いが成就するよう祈るほかには、日頃の感謝を神様に伝えるという参拝方法もあります。
僕は初めこそ前者でしたが、徐々に後者へとシフトしていきました。
神頼みする虚しさに気づいてしまってからは、なぜか感謝を伝える方式に変化してしまいました。
せっかく宝くじ当たれ! って、祈ったのに末等しか当たらないじゃないか!
などと吠える虚しさに気づくか否かで考え方は変わります。
御利益なんて単なる気休めで、もし願いが叶ったら偶然。
そう片付けるのも可能ですが、八百万の神様いるのならば承認するも否認するも、八百万くらいの選別を経て初めて育っていくのではないでしょうか。
神社で頭を下げた回数と、クレーム対応の客先で頭を下げた回数、多い方がいいのか少ない方がいいのか。
感謝と謝罪。
一体どちらが先に解答へと導いてくれるのか、知っているのも八百万の神様たちだったりするかもしれません。