皆様、おはようございます。
今日は暑い一日。いや、最近と比べればの話なのですが。
本日この記事を書いているのは、2023年3月8日(水)です。
この時系列からすると、3日後が3月11日。忘れられない日ですね。この記事UP後、5時間弱で地震が発生したわけですね当時は。
本当は震災ネタを書くのは自制していて、書いてしまうとただの体験記になってしまっておもしろくないと感じているのに加え、あまりこのネタについて他者がどうこういうのはよろしくないんじゃないかと思っている次第。
当事者ではあるんですが、今更掘り返さなくても……と、感じることもしばしば。
けれども、3月11日は自分の人生に於いての転換期にはなっていたと思うので書き連ねさせていただきたいと思います。
何回かに分けるかもしれませんが、書いてみるまでわからないといういつものノリで一つご了承を。
ここらへんの体調を崩した話は随分の前の記事にありますのでよければご覧ください。
あの2011年3月11日(金)に僕がなにをしていたかと言いますと、宮城県にて普通に遊んでいました。
出身が宮城県ですので、別に何も深い意味はなくただただ日常を過ごしていて、当時社会人3年目くらいで体調不良を理由にニートをしていた頃です。
懐かしい。まだ、喫煙者でしたね。
3月11日当日、僕は弟と一緒に近所のアミューズメント施設にて遊戯。
15時前に大地震が発生した頃、周囲のお客さんたちは慌てふためき一目散に屋外へ逃げていったのを記憶しています。
僕と弟は何故か冷静で、天井から落下物があるにもかかわらずゆっくり外へ避難しました。
駐車場の車は、バウンドしておりました。
比喩ではなく、マジでバウンドしてました。
ひっくり返るんじゃないかというくらいに。
一通り、地震が落ち着くとこれからの悪夢を飾るように結構な雪が降ってきたのを覚えています。
寒い。
当然、大型商業施設といえども停電が発生。
断水ももちろん。
たった数分で、遊んでいた頃のにぎやかな雰囲気はどこかへ消える。
避難した人たちは一様に顔を見合わせ、車に乗り込む人、うろうろしている人、どこかに電話をかける人……。
すごい光景でした。
しかも電話は繋がらない。
そんななか、弟の携帯が奇跡的に母親につながったんです。
とりあえずの安否確認をし、実家に向かう。
当時は2人とも実家暮らしでした。
信号が止まっているので手旗信号で目的地へ向かいます。
こういうときはみんな譲り合いの精神を発揮して、交互に交差点を通行していきました。
僕の住んでいた地域は坂が多く、普通でも車のパワーを消費しますし地震で亀裂の入った道路は堪えました。
なんとか実家に到着すると、生まれて初めてびっくりハウスをみたと言いますか、施設のモニュメントのように家が傾いていたんです。
むしろ傾いていたというか、崩れていたんですが。
今となっては津波の恐怖は誰しもが知る人智を越えた驚異であることに間違いないのですが、内陸部でも甚大な被害があったということです。
首都圏でもそうでしたよね。
一軒家だったので庭がありました。
その庭が数段下に下がっていたのは目を疑いました。
土間と玄関の間隔が1メートルほどあり、家に這入るためにはジャンプしなければなりませんでした。
いやあ、途中まで書きましたが本当に懐かしいですね。
12年経過したとは思えない。
マジで昨日のことのように感じられる。
これはやはり体験したからこそなんでしょうが、家のなかに這入れたから、復旧もできるみたいな甘い考えも生まれていました。
でも実際にプロがみたら再建は不可能らしく、家は数ヶ月後に取り壊しが決まりました。
24年くらいでしょうか。生まれ育った家が瓦礫の山になるのはいたたまれませんでした。
今は何とも思いませんが、仕方がなかったことだと割り切れますが、当時の僕はかなり悲しかったらしく、それに起因するわけではないですが3ヶ月後くらいに、過去記事にあるように肺の手術をすることに相成ります。
やはり何かしら、あの一件が今後の人生にプラスにもマイナスにも働いたのだと思います。
ニートを脱却するのはこの翌年のことです。
大震災後、夏に手術になるのですがその辺は割愛。
震災に関連した話は他にも引っ張り出せばいろいろあるのでしょうが、長くなりそうなのでここらでいったん一区切り。
今日という日がまた新しい1日への、いい一歩になることを願いながら締め。
あの震災を乗り越えたという事実は消えないわけで、人間は思っているより脆く、思っているより強いということですね。
今回の続きの記事更新は2024年3月11日を予定しております。
こんな冗談を言えるまでに成長したので。