
皆さん、お疲れ様です。
チェンソーマンレゼ篇を鑑賞してきました。
いやあ、ど迫力の戦闘シーンでした。
元々原作は好きで、アニメも全部観ていたんですが劇場版ともなると期待値上がりまくり。
原作のコミックスのほうは未読が多いので、近々買って読もうかと思ってます。
コミックス5巻〜の話みたいですね劇場版レゼ篇は。
さてさて劇場版レゼ篇ですが【炸裂する少年と少女の夏】やグレイジーラブバトルなどコピーがついていて、ああ、なるほどなと納得の内容でした。
チェンソーマンは、すごく王道なストーリーに見えて考察のしがいのある作品だと感じます。
ネダバレ少し含みますが、ヒロインとくっつきそうでくっつかないという王道を圧倒的な説得力でねじ伏せてると言いますか、読者(鑑賞者)の理想を打ち砕くというか笑
僕は王道な展開は王道なゴールに帰結して欲しいという少年的な願望の持ち主なので、やっぱりヒロインとイチャイチャして欲しい。
しかしチェンソーマンは、そうではないんですよね。
そうではないですが——前述のああ、なるほどなこういう終わり方もあるか——と、不思議と納得できてしまうのです。
影響されやすい僕は、元々好きな作品だったということもありパンフレットをはじめ映画雑誌SCREENの増刊号を買ってみたり、マキマモデルの眼鏡を買ってみたり、ファンらしいお金の使い方をしたのですが好きなものがあるって幸せなことですよね。

パンフレットに書かれていたことで、こういった創作物あるあるなのかもしれませんがシーン別に担当が違うそうです。
当然なのかもしれませんが、そこにはそれぞれの個性が光っているんだと思います。

個性は大事なもので、そういったものの集合体が作品なんでしょうね。
僕は個人で音楽やらなんやらやってますが、基本的には一人です。孤独ななかでの創作というとかっこよさげに聞こえますが、実際好きでやってることは往々にして孤独なのだと思います。
チェンソーマンの主人公デンジの回りには仲間が多くいますが、本質的に孤独なんだろうと映画を観ていて思いました。
ただデンジは欲望に対して忠実に動く。
貪欲とすら言えるかもしれません。
僕たちのような大人は、貪欲になりすぎると出世コースから外されたり、裏切りにあったりと実社会には映画では描ききれない闇のようなものが渦巻いている。
まあでも、不穏の要因だったり不和の口火を切るのは結局のところ自分なんだとは思います。それは孤独でも孤立でも、自分中心。
自分中心に物事を考えるのを悪とし、少なからず誰かに合わせなければいけない。
長年生きてきて僕もそういう風な考えだったんですが、チェンソーマンを観て案外、それって当たり前じゃね? って思えるようになりました。
よくありますよね?
欲ありますよね?
先頭の字を変換すれば、ちょっと意味合いが異なってきます。
よくありますよね? 僕の私の気持ちを考えないで自分中心で——って、フレーズ。すれ違って相手と仲違い。よくある話です。
でもこれって、それぞれ自分中心に考えてるってことの裏返しだと思うので、忍耐は必要でそれが無理ならそれまでってことなんだと随分前に悟りました。
続いて、欲ありますよね?
今の話に関わってくるのですが、欲あるから人の気持ち考えるんじゃないかと。
無欲は基本無理です。
欲望はあったほうがいい。
その上で、やはり忍耐でしょう笑
排泄を我慢することは僕には無理ですが、人のあれやこれやを我慢するのはできると思ってます。
もちろん、我慢しすぎは鬱など発症しかねないので禁物。
じゃあどうするの?
答えは——好きなものを自分中心に楽しむことなんじゃないかって今現在の僕は思ってます。
こういうのも十人十色ですからね。
いろんな発想があっていいと思います。
ただ、自分を大事にしないのはやめたほうがいいです。
俺、私ってすげーみたいなデンジのような自分に忠実な自分であったほうが楽しい人生送れるんじゃないかと思います。
みなさんにも幸あれ。
今回はこの辺で。