伝説の経験値を求めて 

生き方はシンプルに、人生はアバウトに

呼吸トス 長く続けてきたものを手放すとき

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最近暖かくなってきましたね

ページを開いてくれてありがとうございます!

 

今回はコキュートスと呼吸をかけた、ようわからんタイトルで話を進めていこうと思いますw

 

僕は人様のブログを読ませていただく機会があまり多くなく、我が道を行く感じで自分のブログを続けています。

 

隣の芝生は青く見えるじゃないですけれど、リンクを張ったり役立つ情報が書かれていたりとどうしても自分のブログと比較してしまうんですよね……

 

っていうのも、今は昔。

 

あるときから、自分は自分他人は他人を地で行く、そんな考えが固まってきたんですよね。

 

ですがこれって、一種の逃げであるとも思っています。

 

ある種、保険のようなものかな?

 

なんか自分があまりにも他人よりも見劣りしてしまうから、己の捻った正当性で誤魔化すような……そんなあまり気持ちのいいものではないと言いますか。

 

誰しもが継続してやってきていることってたくさんあると思います。

僕ならゲームとか音楽などがあてはまりますが、どこかで必ず振り返るタイミングってありますよね。

 

他人の真似をして楽しいなら、真似をすればいい。

他人と違うことをするのが楽しいなら、それも正解でしょう。

 

ただ気づけば、時間が過ぎています。

振り返る瞬間すら作らずに、目標に向かって邁進する姿はとても美しいものだと思いますが、高確率で「隣の芝生は青い」おばけが昼夜問わず襲ってくる。

 

自分は自分他人は他人っていうのは、至極当然なことであって社会人ともなれば念頭に置かねばならない概念です。

 

でも本当のところ、そいつはもしかしたら自分と他人を比較してしまわないように、あるいは優劣をつけてしまわないようにする呪文みたいなものだったり。

 

なんとなーく最近はそんなことを考えてしまいました。

 

文章を書く仕事をしている人もいれば、文章を世に送り出すために編集する人もいる。

そこからさらに、販路を開拓するために遠く営業をかけに行く人もいる。

 

もうなんかそういった状況がある時点で、自分は自分を七割方捨て去ってしまわないと、他人は他人で打ち消すことが出来なくなってしまいそうな気がするんですよね(^0^;)

 

結局のところ、自分の道は自分が決めるわけですが、環境が許さない場合だってあります。

 

その環境の構成要員として、他人がいるわけですから。

旧知の仲がいても、意見の食い違いから犬猿の仲に進化、あるいは退化してしまう可能性もあります。

 

ここまでくると中心人物って、一体誰なんでしょう?

 

自分か。

他人か。

 

自分の人生なんだから、自分が主役で間違いはない。

 

しかしその自分は、他人からすると自分。

ヤバい……クソ哲学だったw 意味が通じない度MAXw

 

第三者の目と言えばいいのか微妙ですが、他人に見られている意識は大切かもしれませんね。

 

呼吸が荒くなる瞬間が、人それぞれであるように環境の変化に対応できるか否かも重要です。

足並みを揃えるというのは初動は出来ても、すぐにほつれてしまいます。

 

長く続けてきた呼吸が乱れるときは、自分があまり気にしていないようでいて、実は一番気にしているのは自分であると身体のほうから教えてくれているのかもしれませんね。

 

まあ、無理は禁物ですがw

無茶しすぎて、呼吸どころでなくなってしまっては酸素吸う意味ないですからね。

 

自分との問答って難易度高いですよね、僕もついつい自分を納得させるために……

 

と、ここで漸く気づくわけですね。

 

自分を納得させるために、つまりは守るために、何かしら並べて「隣の芝生は青い」広大なフィールドが完成する。

 

悪いことをしているわけでは絶対ないのにもかかわらず、気が少しずつ滅入ってくるのが、振り返りや比較なんでしょうね。

 

ううむ、またしてもまとまりのない文章になってしまいましたが……ここまで付き合っていただき誠にありがとうございますm(_ _)m

 

この記事でちょっと続きがかけそうなときはいずれ……