伝説の経験値を求めて 

生き方はシンプルに、人生はアバウトに

挨拶のある風景

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本日もお読みいただきまして、誠にありがとうございます。ゲシバイヌと申します。

 

昨日は仕事からの帰宅後、録画していたクレイジージャーニーを観ておりました。

僕はこの手の旅番組が大好物で、世界には怖くていけないけれど、他人の体験を映像や音声で鑑賞するのがストレス解消にもなっています。

 

世界は広いですね。

それぞれ研究している分野は違えど、全ての方々が情熱に溢れている。

 

好きを極めるのは、仕事をする上で重要なファクタなのでしょうが、公私混同をしてしまうのはタブー視されてしまう世の中。

そういった垣根を越えた世界観が構築できれば、今よりも随分楽しんじゃないかという今日この頃です。

 

さて、表題の挨拶についてなのですが……。

 

そもそも全世界を引っくるめたときに、共通事項として外せないものがまさに「挨拶」なのではないでしょうか。

 

朝起きたらおはよう、昼間はこんにちは、夜はこんばんは。

言語は違えど、全ての人々が発することのできる言わば、パフォーマンスと言っても過言ではない特殊技能。

 

技能というほどではないのはわかってます。

 

しかし、今回は単なる挨拶を「技能」たらしめる出来事があったのです。

 

それはつまり、誰もができないことなのでは? と、僕は疑問を抱かざるを得なかったのです。

 

挨拶って、難しいですかね。

 

僕は、ものすごく簡単なことだと思っています。

仕事柄、随分前から「いらっしゃいませ」「お疲れ様です」「ありがとうございます」など、接客用語を初めとする挨拶をしてたからかもしれません。

 

ですが、それを差し引いても挨拶は容易なことだと思うのです。

 

うちの職場には、いや、全ての職場でもそうでしょうが「挨拶」ができない人間が多すぎる。

 

ましてや、こちとら接客業。

これができなければ、論旨退職くらいにまで追い込んでもいいんじゃないかというくらいに。

 

なのにもかかわらず、大多数の従業員たちができない。

これは、社員だろうバイトだろう関係なしに圧倒的にまともな挨拶ができない人間が多すぎるんですよね。

 

客の前では、そりゃあ愛想を振りまくでしょうが、実はこれも日頃の素が出てしまうタイミング。

すぐに、ボロがでる。

 

己を評価するのは上司ではありません。

お客さんです。

 

上司なんかよりもシビアで敏感。

従業員に愛想を振りまくのは僕のみならずみなさんもそうでしょうが、問題は質。

 

この質は、従業員同士で挨拶をするのとはわけが違ってきます。

多少なり砕けた感じで挨拶ができるようになるのは、ファーストインプレッションの壁を越えたはるか先にあります。

 

初めからフレンドリーさとなれなれしさを混同している輩は、お客さんジャッジに引っかかってしまい、落選。

 

次は、ないかもしれません。

 

従業員同士で挨拶をする際も手を抜いてはいけません。

ある程度、活気に満ちた発声をしていないと本番(お客さん対応時)で失敗する確率は高くなってしまいます。

 

そういった機微を瞬時に感じとる消費者というのは、一歩外に出れば他人同士であるのに、店舗の中ではまるでイリュージョニストであるかのようにある種、僕たちを魅了してきます。

 

従業員である僕たちも、外に出れば、買い物客。

 

すると、単に買い物をしているだけでも、どこかのスーパーや百貨店でこちら側から見たあちら側を覗き、通常見えないものまで見えてくる——そんな、タイミングがやってきます。

 

まあ、何が言いたいのかというと。

挨拶ができない、コミュニケーションをとれない、そんな二十代三十代が多いのだなと三十代の僕は思うわけです。

近所の未成年たち(表現が怪しいかw)のほうがよっぽど、自分から挨拶してきますよ。

 

百歩譲って、あまり人と関わらないような仕事に就いている人はそもそも挨拶をする機会自体がないかもしれませんのでいいとしても……。

 

盛大にいらっしゃいませを言わなければならない、自発しなければならない職業の人たちが問題ですね。

表でもバックヤードでも、愛想のない挨拶をしているのではダメですよね。

 

形容すると、パンクしたタイヤから漏れる空気のような音しかしない、でしょうか。

こっちがお疲れ様ですといっても、「ぷしゅー……」とまさにギャグのように、聞こえない発音をしても挨拶は成立するのだという御頭。

 

いやはや、残念です。

 

就職先でもバイト先でも、挨拶の重要性をたたき込まれた僕からすると、ろくに挨拶もできない人間は何もできない。たぶん、仕事しかできません。もっというなら、仕事ではなく作業しかできません。

 

もがき苦しみ、試行錯誤の上に応用するためには、基本から。

なんだか大昔に先輩方に教わったうざい格言系の話題も、我が身三十となりし今、しみじみと身に染みる次第。

 

隣の芝生はく見える。

 

これはおもしろい言葉ですよね。

 

他人のものはよく見えるというものですが、ここから先が大事です。

 

じゃあ、そのままでいいのか?

隣の芝生がく見えたのなら、自分はそれを超えようと奮起しないのか?

 

僕にはそんな隠れた意味があるように思えてなりません。

ああ、いいなーで終わらせてしまうと成長は止まってしまうから、何かを考えさせる意味を込めてこの言葉が作られたのではないかと深読みしております。

 

考えすぎですねw

 

ですが、そのが気に食わない青だったらどうでしょう。

がいいのに、では物足りない。

 

つまりこの時点で、羨望は消滅しています。

 

不足分はどこから補うべきか。

別にそのでもいいけれど、どうせならもっと魂のこもったがいい。

 

妥協するもよし、高みを目指すもよし、正解はないかのように見せかけて……真実は、割かし身近にあったりするのです。

 

不思議なもんですね。

 

羨ましい気持ちが一瞬で霧散した後に残るものは、羨ましいと欠片も思わなくなった自分に対する成長だったりします。

 

進化とも言えますね。真価かな。

 

あるいは、空気が抜けているような軟弱な挨拶をするタイヤに対して、応急処置を施して、自分は絶対にパンクしないタイヤを履かした愛車で颯爽と立ち去る。

 

そのスピードには、誰もついてこられないでしょう。

 

空気の抜けたような挨拶をするタイヤは、タイヤ単独でしか生きていけなくなります。

フレームもサドルも何もない。

 

基本を熟知した各種パーツは、いつの間にか高級な車体へと組み込まれていく。

 

人は人自分は自分をどうか履き違えませんよう。

 

戯れ言に付き合っていただき、いつもありがとうございますm(_ _)m