伝説の経験値を求めて 

生き方はシンプルに、人生はアバウトに

自然と人間の恐怖:災害との闘い

宇宙人ウィンナーうまし

皆さん、おはようございます。そしてお疲れ様です。

 

本日は休日です。

2024年入って早々の災厄について一つ。

 

前回の記事で東日本だし震災を振り返ろうと思い、記憶が残っているうちに記述しようかと考え朝からキーボード叩いています。

 

今からもう13年ほど前の僕は、完全なるニートとして生きていました。

ここらへんの話って数年前の記事で書いていたような気がするので割愛。

 

能登半島地震で今現在多くの世帯で断水が発生していて、インフラ設備がただのものとなってしまうこの状況はとてももどかしい。

本来の力を発揮しない水道なんてインテリアにすらなりません。

 

13年前の当時、同じ状況に立たされた僕は率直に電気より水が人間にとって大切なんだと思っていました。

 

ですから今回の極寒の時期に断水するというのは、水道管凍結とかそういった事情を除いて天災以外に原因がありません。

 

人間の生理現象って止められない。

僕は緊張するとお腹に来るタイプだったのもあり、断水を知ったときの絶望感は計り知れませんでした。

 

タンクに汲んできた水を入れてレバーを回して排泄物を流す。

こういった仕組みを機械で勝手にやってくれているわけですが、これがひとたび人力になるとその労力たるや。

 

下水に流れていく排泄物は、当然ながら下水道という道を通っていく。

そんな当然すぎる話ですら、震災時は遠い過去のように感じていたのを覚えています。

 

往事に思い出させられるのは、やはり当たり前のことが当たり前にできなくなったときの人間の対応力について。

東日本大震災のときは案外どうにかなっていましたが、それは内陸部で自宅が全壊した僕と、沿岸部で津波被害に遭われた方とでは感じ方が違うと思います。

 

それぞれの状況に対応した厳しさであったり、辛さがそれぞれの身に降りかかる。

 

自然は恐ろしいです。

13年前の15時前と、1週間前の16時。

 

同じ自然でも人々に与える恐怖などの感情は大きな差があり、しかし——被害を与えたことには変わりない。

人間も怖いですが身近な空間や自然、その他の世の中を構成している意思を持っているようで持っていないものは、普段隠れている災厄なのかもしれません。

 

今回はこの辺で。

被害に遭われた方のご冥福と、1日も早い復興を心から望んでいます。